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ハロー、ベイビー&プチトマト


 たっぷりとたたえられた湯のような午後三時の空気が子供たちの笑う声にゆらりと揺れる。昼間の公園は昼食後の満足感に満ちていたが、そこに眠気やけだるさといったものを見出すのは公園の隅のヘチマ棚の下で世間話の輪を作る大人たちだけだった。柵の格子にしおれた朝顔がしなだれかかっている。ミンミンゼミが飽きずに羽をこすっている。夏休みに入って間もないころだった。
 さして広くもない広場では男の子たちが野球をしている。五秒もあれば進塁できてしまいそうな、運動靴の踵で線を描いただけのごくささやかなミニ・ベースだ。誰かの妹なのだろうか、女の子がひとりだけ混じっている。小学校に上がるか上がらないかという年ごろで、ゆるい癖のついたおかっぱの髪をふたつにしばり芋掘り用の軍手を小さな手にはめて、何が何だかわからない様子で内野に突っ立っていた。打者がばふっという音をたててボールを左に転がす。女の子が華麗にゴロをキャッチする。が、その後がまずかった。彼女はよく分からないままに、兄であるらしい投手に向かって送球してしまったのだった。一塁で走者がよっしゃあと雄叫びをあげる。兄は妹の手をぴしゃりとたたき、この馬鹿と言う。この馬鹿。だから連れてくるの嫌だったんだ。あっち行ってろ。妹は泣いて地団駄を踏むが、聞き入れる兄ではない。片手で妹の肩をついて、ミニ・ベースの外へ押し出す。兄の仲間たちは気の毒そうな表情とほっとしたような表情とを半々に浮かべて兄妹を見守る。兄がもう一度行けと言うと、とうとう妹はしゃくりあげたままブランコのほうへと歩いていった。
 四台ある吊りブランコのうちの二つでは、三年生ほどの大きさの女の子ふたりが立ちこぎをしていた。妹は一番左端のブランコに腰掛けて、少し漕いだ。デニムのフレアスカートの中を風が抜けてすうすうする。妹がブランコを始めても、二人組は意に介さないといった様子でますます高く漕ぎあげていった。支柱と鎖、金具と台の擦れ合う軋みが、二人から離れている妹の体にも感じられた。二人が前方に飛び出しては視界の外へ引っ込むのを見ていると、いつ膝を曲げ脚を伸ばし、腰をどのように使えばより高くへ昇れるのかが分かる気がした。しかしコツを飲み込んだ妹が立ちこぎを始めたときにはもう二人組は漕ぐパワーを緩めつつあった。ブランコ遊びは終盤へと向かっているのだった。十分に高度を落としたところで一人がブランコを飛び降りる。着地に失敗して前のめりにずっこける。起き上がって擦りむいたらしい膝の傷の具合を見ようとしたところで、主のいないブランコの台が女の子の頭を直撃した。鈍い音が響いた。もう一方の女の子もブランコを飛び降り、大丈夫?と声をかける。二人はイチョウの木の陰の水道場へ歩いていった。
 日陰の水はひんやりと冷たかった。膝の砂を洗い流すと親指の爪ほどの大きさの桃色の傷が現れた。小石の喰いこんだ手のひらにも傷ができていた。膝も手もひどい傷ではなかったが、転んだ女の子は絆創膏が欲しいと繰り返した。もちろん二人とも絆創膏など持っていない。転んだ女の子はいったん家に戻ることにした。残された女の子はジャングルジムで遊んでいる同じマンションの子供たちの集団に混ざることにした。彼女のほかには三年生の男の子がひとり、四年生の男の子がひとりと女の子がふたり、五年生の女の子がひとりいた。一番年上のお姉さんがこれから林檎が三っつをするところだと教えてくれた。三年生の男の子が遊び方を知らなかったため、お姉さんは丁寧に説明をしてくれた。鬼が林檎が三っつって言ったら、みんなは地面に林檎を三っつ描くのね。そして三っつって言ったんだから鬼はジャングルジムを三周走らなきゃいけなくってね、走ったら誰かをつかまえて、それで鬼の交代になるんだ。他の人は描き終ったら上に登って逃げられるんだけど、もたもたしてると鬼につかまっちゃうの。でもいい加減に描いたり下手に描いたりしたら、後でみんなからしっぺを食らうの。お姉さんはそこまで説明をしておいて、ジーンズのポケットから水色の携帯電話を取り出して時刻を確認し、ごめんね、今日は塾があるから先に帰るねと言った。私がいなくなってもお母さんたちが迎えに来るまで公園の外を出ちゃ駄目だからね。気をつけて、怪我なんかしないでね。四年生の仕切る林檎が三っつを後にして、お姉さんは公園の出口へと歩いていった。
 四時半を過ぎた頃だった。お姉さんは公園の出口の錆びた鉄柵のすぐ脇の低い場所に何か赤いものが隠れているのを見つけた。近寄ってみると、直播きのプチトマトだった。細い枝ぶりのわりに大きな実が鈴なりにみのっていて、先にいくほど赤く色付き、先端の一粒はみずみずしく、真っ赤に熟れていた。お姉さんは前後左右を注意深く見まわした。誰もこちらを見ていない。からからの喉に砂混じりの唾を飲み込み、その一粒に手を伸ばした。しかしほんの少し指が触れた途端、無残にも実はぽろりと崩れ落ち、乾いた地面を転がった。犬が小便をするような地面だった。お姉さんは弾かれたように手を引っ込め、再び辺りを見回した。やはりお姉さんの挙動を見咎めるものはなかったが、遠くから公園の外の通りを下ってくる足音があった。お姉さんはそそくさと公園を出てその通りを商店街のほうへと下っていった。途中でこっそり振り返ってみると、地元の中学生のカップルが肩をゆすって歩いてくるのだった。カップルは公園には入らずに、お姉さんと同じ商店街のほうを目指している。

 夜になった。宵口などではない、蝉の鳴き声も静まった完璧な夜だ。ヘチマ棚の下のベンチに浮浪者が座っていた。ワンカップの清酒を一口すする。手を傾けすぎたらしく、厚い唇の端から酒が一筋こぼれ落ちた。浮浪者は手の甲でそれをぬぐい、ゆっくり立ち上がって水道場へ歩いていく。顔を洗って公園の出口を見やる。猫が小さな赤い実に見事パンチを決めて、その手の汚れを丁寧に舐めとり、舐めたついでにこれまた顔を洗っているのが見えた。

2007 11 13 大学4年の秋  稚菜

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