水蒸気の夜


 眠りが嫌いなだけだ、私は不眠症ではない。
 台所で冷蔵庫がぶぶぅんとうなりはじめる。深夜三時をまわったころ、仕切戸のむこうの冷蔵庫の鳴き声まできこえる。その低い呻りに蛍光灯の甲高い声が重なっている和音の、ひとつひとつの音を聞き分けることができる。カーテンをちょっとめくれば向かいのアパートの様子だって見える。眠らない耳と目は昼間より格段に冴えている。絶好調だ。
 空調のせいで部屋の空気は乾燥している。からだの水分が音をたてて蒸発していく。特に腕がひどい。かみそり負けした肌がささくれ立っているのを見てほしい。私はペットボトルの水をのどにながしこむ。ミネラルウォーターではなくただの水道水だ。ろくに洗いもせず使いまわしているペットボトルの口は、粘度の高い唾液のにおいをかすかにはなつ。夜は嗅覚まで鋭くなるらしい。コップに移しかえようかとも思ったが、台所へ立つのがめんどくさい。
 私は手紙の整理をしている。手紙といっても郵便で送られてきたものではない。ただの走り書きや贈り物に添えられたカードのたぐいだ。  過去の私に対して投げかけられた言葉には、今も胸を打つものもあれば、陳腐になってしまったものもあった。どこかの歌や何かから引用されただけの言葉だろうと思っていたものが、実は非常に深いきもちをこめた言葉なのだったと後で気づくものもあるにはあるが、そう多くはない。そういう可能性のあるものは大概以前に捨ててしまっていた。  春までは、同じ建物の違う部屋に住んでいた。色々とあって、部屋番号だけを変えた。表札の表示も変えてしまった。家具だけは人に頼んで運ぶのを手伝ってもらったが、他の荷物はすべて自分ひとりで運んだ。台所のシンクの洗い桶も、食器かごも、洗剤もスポンジも、手で持って廊下を歩き、階段を上り下りした。何の包みもなく運ばれるそれらの日常的な品々は、家の外へ一歩出ると、日常的な意味を取り払われた裸の姿を私に見せてくれた。用途のないそれらのものは芸術的な形をしていた。  過去の手紙は過去の言葉だ。今の私にはなんの意味もない。
 ことわっておこう。私は今、卓上のサボテンにむかって話しかけている。今の私の言葉は、サボテンへの語りかけだ。
 このサボテンは偉い。三ヵ月水をやらなくても立派に生きている。この子をみるたびに、あぁ、水を与えてあげなければ死んでしまうと思うのだが、昼間はなんとなくうやむやに後回しになってしまう。夜になればなったで、日が暮れてから水などひっかけては寒かろうと不安になり、やっぱり水をやらない。
 それでもすべての観葉植物をほったらかしにしているわけではない。台所においてある水栽培のアイビーの水はきちんと毎日とりかえている。ガジュマルの木の葉は週にいっぺん水拭きしてやっている。
 それにこのサボテンには、毎日言葉を与えている。
 サボテンは球形だ。ただし均整はとれていない。すこし上向きにひっぱったような、奇妙な三分の二球の形をしている。とげは細かく、ほそく長い。
 私はそのとげに指先で触れてみる。指先で触れるのに飽きたら腕時計をずらして手首で触れてみる、手首に飽きたらこの遊びをやめる。
 私は痩せた。ジーンズのお尻が下がった。ブラジャーがだんだんずり上がってくるようになった。腕時計のバンドもゆるくなった。なのに家でも腕時計をつけている。時計の針が動いているのを手に感じていないと落ち着かない。私の心臓は手にあるみたいだ。
 はじめてサボテンを買ったのは、幼稚園のバザーでのことだった。トリコロールの人工砂ににょっきりと伸びたとげの太いサボテンは、人頭のような赤い球体を上部に載せていた。後から知ったことだが、ああいうサボテンは細長いサボテンと球状のサボテンを接ぎ木して作られるらしい。人の手によって人生(というよりサボテン生)を無理やりに捻じ曲げられたサボテンは、やはりすぐに駄目になってしまった。床に置いていたのをうっかり母が踏み倒してしまったのだ。母は血の出る足裏を私に見せながら怒り狂った。どうしてあんなところに前振りもなく鉢を置いておくの! うっかり踏み倒したのは母であって、私が仕組んだわけではない。サボテンは可哀想に、少ない体内の水分を滲出させながらぐにゃぐにゃにつぶれていた。私はその子を土といっしょにビニール袋に詰めて、燃えるごみの日に出した。鉢は可愛らしいのでとっておいた。
 以来何体かのサボテンを育ててきたが、この子は特に可愛がっている。水は、そうだ、死ぬ間際に与えてあげよう。それがもとで生き返るかもしれない。
 ようやく椅子から立ち上がる気になった。回転椅子が不安定に回転する。
 回転塔。夜の公園。近所の回転塔は、手を挟まれ複雑骨折し泣き喚いた子がいたので、取り壊されてしまった。おかげで子どもたちは公園から消えてしまった。危険の無い公園にはいま、浮浪者がいる。安全なベンチで眠り、気がむけば吊りブランコに乗る。浮浪者がすこしブランコをこげば、夜の公園にリズムが生まれる。浮浪者はそのリズムに鼻歌をのっける。夜の公園は音楽で満たされ、飽和し、すこしだけ膨れる。ある一定の体積以上には膨れない。破裂することはないのだと、浮浪者も公園自身も分かっている。
 私は春に洗いかごを持ってこの建物の廊下を歩いた。洗いかごの移動した軌跡は私の移動した軌跡と一緒になって建物を彩った。軌跡はマウスをドラッグするようにして描かれる。その移動した跡ははじめ虹色に、時間がたつと褐色になって風景に残る。その色はもちろんいつまでも残っているわけではないが、時折よみがえることはある。私にはときどきその茶色が見えるのだ。風景にできた染みは、私たちの移動した跡を記録してくれるインクだ。スポンジが移動した跡はどうなったのだろうか。滲んで消えたのか、それとも変質して凍り豆腐にでもなったのだろうか。
 回転椅子から冷蔵庫へ移動する間に、過去の私への手紙を踏みつけてしまった。目も耳も冴えているが、足はどうも鈍いらしい。しびれて使い物にならない。
 手紙を踏みつけたその一歩は深く深く沈みこんでいった。手紙からあふれ出る涙の渦に呑まれないように、私は急いで冷蔵庫までひょいひょい移動した。涙の渦は可愛らしい子どもの手をこちらに向けて振ってみせて、どこかに消えた。冷蔵庫から新しいペットボトルを取り出して回転椅子まで戻ってくると、手紙のインクは涙に滲んでもう読めなくなってしまっていた。このごろのインクは性能が落ちたものだ。
 私はペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。飲んで、飲んで、また飲んだ。飲んでいる間は口をきくことができないから、少しの間黙っていることを許してほしい。
 浮浪者は吊りブランコの上に立ち上がる。少しやる気を出したらしい、立ちこぎを始める。吊りブランコはどんどん高みへのぼっていく。上昇と下降のリズム。やがてブランコは支柱を軸とする円運動を始める。今やブランコはブランコではなくなった。巨大な鉄棒だ。あるいは、横倒しの回転塔だ。
 私はほかの手紙を読もうとした。しかしインクの文字はすべて滲んで見えなくなっていた。黒インクは拗ねて茶色の染みになった。あれ? 黒インクって、青インクとか赤インクを混ぜて作るんじゃなかったっけ?
 ねぇ、ねぇ。サボテン。まだ聞こえてる?私の体から蒸発した水分は、あなたの体の中に吸収されているのね。私は思う存分水を飲んでいます。次はあなたが私のお水を飲む番ですよ。私は懸命に語りかけるが、水を飲み下している最中なので声を出すことができない。
 飲みながら、カーテンをちょっとめくる。雨が降っていた。向かいのアパートは、無数に降下する雨の矢のはるか彼方だ。一筋の川を隔て、果てしなく遠い。私は目を細めてその部屋をにらんだ。何も見えない。見えないが、その部屋の窓にコップが置いてあるのが分かる。コップの中身は水だ。水は空気中にあふれているはずなのに、なぜか私たちはペットボトルやコップに集めようとする。私はサボテンではないから、空気中の水を直接体内に取り込むことができない。
 私は落下する意識を向かいの部屋に集中させた。下降の次には上昇がある。私の意識はほどかれ、一筋の水の糸になる。糸は酸性雨や川の水に紛れながら、ほそく長く向かいの部屋へ伸びていく。私の意識が届いた瞬間、私は眠りに落ちようとする。私はやっとのことで腕時計を外した。

2007 大学3年の冬  稚菜

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