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水の流れをせきとめて

 彼女の歌声が聞こえた。目を開けた。雨がふっているのだと気付くと歌声は聞こえなくなった。古い思い出を愛撫するように歌われる歌は、風にひるがえるカーテン。ガラスのコップに注いだ水。部屋のガラス戸から生まれる午後の虹。彼女の声は太陽の光に満ちたものだった。
 ぼくは蛍光灯の明かりをつけてカーテンを閉じた。厚ぼったい布地は雨音をたっぷり吸いこんでいる。静かな部屋はひどく蒸し暑かった。汗がべたつく。立ち上がって台所まで移動し、冷蔵庫を開ける。サイダーのペットボトルを取り出す。ぼくはラッパ飲みした。熱い泡。炭酸を飲むと頭が少しはっきりした。
 そうだ。彼女はこの部屋を出て行ったんだった。白いカーディガンを羽織り、ベージュのパンプスをひっかけて。
 彼女は白のカーディガンの下に若草色のノースリーブを着ていた。パンツは靴と同じベージュだった。パンプスには皮の花が咲いていた。もう夏なのに、春のような色あわせだと思った。髪はおだんごにしていたが、あまり上手にまとまっていなかった。でもその髪のほつれ方は花がほころぶときと同じ、弾みのあるほつれ方だった。この部屋に入ったとき、彼女は笑っていた。出るときにちょっとこちらを振り向いたが、顔が影になっていた。だからどんな表情をしていたのかわからない。
 サイダーが無くなった。ゴミ箱に投げ捨てた。外れた。ぼくはゴミ箱まで歩いていって、転がったボトルをもう一度捨てた。捨てたゴミ箱の中に彼女が使ったちり紙が残っていた。つまみ上げて、丁寧に開く。鼻をかんだあとではなく口の周りをふき取ったあとで、鮮やかな赤の口紅が残っていた。ぼくはそのちり紙にぼくのくちびるをうずめた。舐めた。油とピザの味。パルプの舌触り。ラメのきらめき。それを目にあてた。目頭に強く押し当てた。汗が噴き出す。額が、シャツの背中が、腋の下が濡れる。ぼくは長い間飽きずにちり紙をいじくり回していた。その後でゴミ箱に戻した。彼女が使ったちり紙、マグカップ、残していった抜け毛。そういうものは結局、時間と共に消えてゆくものなのだ。ひょっとしたら全て消え去る前に彼女は再びやってきて新しい痕跡を残すかもしれない。だが彼女のいない時間を過ごさなくてはならないのなら、どのみち同じだ。今のこの彼女の不在のみが事実だ。
 夕方の公園。散り散りに帰ってゆく子どもたち。残された熊手、途中までしか描かれなかった「りんごがみっつ」、回転の止まらない回転塔。やがて夜が来る。人工の明かりでは夜の公園を照らせない。夜の公園を慰める者は浮浪者だ。ここを除いては行く当ても帰る家も持たない男たちだ。だが彼らは本当に暑い夜の公園を鎮めることができるのか?ぼくは仰向けに倒れた。天井がぐるぐると回る。ぐるぐる回る景色。回転塔の記憶。壁や扉や天井の合間に彼女の髪が見えた。弾けとぶおだんご、熟れてぱちんと割れた果実。せっかく結わえていた髪を振り乱して、彼女は梅雨を踊った。ぼくは雨に打たれてびっしょりと濡れていた。だが彼女の髪は乾いていた。そうでなければ、昼間の回転塔で遊べるわけがない。彼女はいつも昼間に舞った。舞いながら、鳥のように鳴いた。猫のようにも鳴いた。そしてぼくの汗ばんだ体に虹を塗りつけた。ぼくは彼女を抱きしめた。彼女の体は限りが無かった。紫陽花の無数の花が無言で開くように、どこまで抱いてもまだ抱きしめられると思うほどやわらかかった。髪を撫でた。髪には結った跡がついていた。そのへこんだ部分をぼくは心をこめて愛撫したが、癖は直らなかった。その凹凸は神聖な山だった。谷川を行く清流だった。上流の川。鳥のさえずり。突如として現れる虹。彼女は歌った。彼女の歌声を聞きながら、ぼくは眠った。次に目を開けたとき、彼女は髪を結いなおしていた。その次に目を開けたときに、彼女はぼくの部屋を出て行った。ベージュのパンプスをひっかけて。
 ぼくは起き上がった。眩暈は止まった。回転も止まった。静かな部屋には雨の音が満ちるばかりだった。湿気。蛍光灯の明かり。
 ベッドの上には彼女の髪が何本も落ちていた。布団をどかすときにふわりと香る、花のにおい。シーツが濡れていたが、これはぼくの汗だろう。ちゃぶ台にはコップの水滴の痕が残っていた。ゴミ箱の中にはちり紙の他にも色々なものが収められていた。彼女が駅でもらってきたチラシ。彼女が噛んでいたガムの包み紙。緑色のガム。あぶら取り紙。台所に行くと、流しにふたつのコップがあった。底の方に僅かに飲み物が残っている。酒ではない。どちらが彼女の使った方かわからなかったので、両方を飲み干した。彼女の痕跡がまたひとつ消えた。
 彼女が部屋を出ていくとき、ぼくは寝たふりをしていた。身支度を整え部屋を出るという彼女の行為を中断できなかった。彼女もぼくを起こさないようにひっそりと部屋を出て行った。暫くは連絡も無いだろう。彼女はたった一人で「遠い町」へ帰っていく。
 帰る?
 帰るだって?「遠い町」が彼女の帰る場所なのか?
 そうなのだ、彼女の帰る場所はここではないのだ。もしあのときぼくが起き上がったとしても、彼女は「ごめんなさい、もう帰らなくちゃ」と言っただろう。彼女にとっての帰る場所は、「遠い町」の彼女の家なのだ。
 回転の止まった回転塔。静かな静かな夜の公園。その静寂にそっと覆いをかけるものは虫の声と浮浪者の咳だ。子どもたちは帰ってしまった。タロットの「太陽」のカードを知っているだろう。大きな太陽のもと、馬上の子どもが歓喜の旗を掲げている。そう、あの子どもたちは太陽の子どもだったのだ。子どもたちは沢山の太陽のにおいを残して帰ってしまった。銀杏の下のベンチで、浮浪者がふらつきながら立ち上がる。よろよろとブランコに近付き、座ってこぐ。少しの間こいで、彼は元の場所に戻る。それが彼の慰め方だった。
 ぼくの体は汗で濡れていた。虹降る霊峰の川で、その汗を流したい。雨ではなく、清流で。今頃あの川はどうなっているのだろう。鳥たちと歌を合わせているのだろうか。虹の龍と戯れているのだろうか。
 いや、川は海めがけて走っている筈だった。聖なる山を降り、人里をすり抜け、様々な生活排水を身に受け、次第に臨海工業地域へと入り、今度は工業排水までも飲み下して、塩辛い海へ混じるのだ。そうなればぼくにはもう川を探すことはできなくなってしまう。他の水と見分けられなくなってしまう。
 焦った。ドアの方を見た。彼女の踊った梅雨が雨を降らせ続けている。蛍光灯の明かりでは夜を照らせない。カーテンは湿気と雨音を吸って重たくなっている。ゆらりとも動かない。ぼくは相変わらずドアの方を見つめている。まるでドアが彼女の瞳であるかのように。
 彼女の瞳。梅雨の似合わない、春の瞳。白目はどこまでも透明で、黒目はどこまでも深い。にじむ涙は清流に注ぐ湧き水だった。睫毛は優しく覆いかぶさる若木の葉だった。だが、今、その瞳は閉ざされている。彼女の不在だけが事実だ。彼女の不在がこんなにもぼくを縛りつける。汗と雨の海に溺れて息もできない。
 今、この瞳をこじ開ければ、美しい瞳に再び出会えるだろう。
 今、このドアを開けて外に出れば、彼女を追いかければ。どこを通るか、どの電車に乗るかは分かっている。どの駅で降りるのかも。彼女はぼくの家を出ると、入り組んだ住宅地を抜けてビルの通りを通っただろう。駅に着くまで、彼女の足では十二、三分かかっただろう。「遠い町」行きの電車は本数が少ない。彼女は改札を通る前に駅前のカフェに入り、ホットのストレートティーを頼み、砂糖も入れずにゆっくりとそれを飲んだだろう。その間にハンドバッグに忍ばせていた女性詩人の詩集を少し読んだだろう。そしてトレイを返すときには必ず未使用のスプーンを見て、もらわなければ良かったと後悔するに違いない。それらの全ての動作の後に、電車に乗り込んだのだろう。
 ぼくは走って駐車場に向かうだろう。ビル街ではなく高校がある方の道路を通ってインターチェンジに入り、空いた高速をひた走るだろう。雨は最高速度で首振るワイパーに弾きとばされる。「遠い町」の駅のロータリーでは、釣り人の目で彼女を待つのだ。何も知らずに改札を出て、出口の階段を出てきた疲れ気味の彼女に飛びつき、抱きかかえ、車に乗せるだろう。彼女は驚き戸惑いながらも、ぼくの行動に幸せを噛みしめるだろう。帰り道では古い歌を歌ってくれる筈だ。
 ぼくは再び彼女の瞳を見出すだろう。ぼくは彼女の顔にぼくの顔を近付けるだろう。そして彼女の、若葉から落ちる雫を、水底から湧き出す水を集めた清流にくちびるを沈めて、その涙を飲み干すだろう。

2006 大学3年の夏  稚菜

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