みだれ髪に胡麻がこびりつく

 この中学では二年生に上がるときにクラス替えがある。生徒数が多いから新しいクラスに前からの知りあいはほとんどいない。教室を見まわす。始業式が終わった直後で騒がしい。今度はやたら女子がうるさいクラスだ。式がおわってから、ぼくは席で配布物のプリントをながめていた。
 教師がクラスに入ってきた。去年も教わった英語教師だ。日に焼けた顔が式典用のジャケットに不似合いだった。新しいクラスの雰囲気に教師はそわそわしているように見えた。クラスの窓を開けさせ、何人かの男子生徒を使って新学年の教材をとりに行かせた。待っているあいだは名簿用の判子の整理をし、もどってきた生徒たちがま新しい教科書を配り終えるのを待って自己紹介をした。テニス部の顧問だということはみんな知っていたし、好きな食べ物の話などどうでもよかった。教師は生徒達にも出席番号順に自己紹介をさせたが、すぐにだれも聞かなくなった。ぼくにも順番はまわってきた。ありきたりに、名前と元のクラスと所属部を言う。特に緊張もない。
 空がかすんでいた。ここは三階。一年のときの教室は二階だった。階がひとつ上がって地に足がついていないような奇妙に浮いた感覚がある。窓からはグラウンド全体が見わたせる。奥には桜の木が植わっているがもう葉桜になっていた。枝は動かない。野球のネットも動かない。風のない日だ。
 前の席の生徒が白い巾着袋をいくつかまわしてきて、それで自己紹介の時間が終わっていたことに気付いた。ひとつを取って後ろの席に渡す。給食当番用の白衣の袋だった。いつの間にぼくは給食当番になっていたのか。そもそも始業式の日から給食が始まることじたいに驚いた。ぼくの席のまわりには、ぼくの他に六人が白衣の袋をもてあましていた。
 教師が教壇をはなれて給食の時間となる。ぼくら給食当番はおそるおそる糊のきいた白衣に袖をとおした。ばりばりという音が聞こえてきそうだ。サイズが大きすぎて余った袖は白を通りこして寧ろ青みをおびていた。列をなして一階の配膳室に向かう。重い金属の扉を開くと、出汁のにおいが一気にあふれ出す。給食のおばさんが壁一面をおおう棚からクラスの分の盆や皿、食缶をひっぱり出して目の前に置いた。ぼくらは顔を見あわせ、誰がなにを持っていく?と無言の相談を始めた。圧倒的に優勢なのは女子たちだった。そこにいた七人のうち四人は女子だったが、彼女たちは男が重い荷物を運ぶのがさも当然だと言わんばかりのすばやさで軽い荷物を次々に持ち去っていってしまった。他の男子たちもあわてて運びやすい荷物を勝手に運んでいってしまった。一番大きくて重そうな煮物や汁物を入れる食缶がぼくに残された。
 アルミ製の取っ手は内容物の熱を通して熱くなっていた。余った袖で取っ手をくるみこんで掴んでみたが、とても重くて持ち上がるものではない。ぼくは途方にくれた。ひとりでは持てない。とりあえず誰かを呼びに教室にもどろうか。でも応援を頼もうにも、話せるような知りあいはあのクラスにはいない。
 配膳室にはぼくとおばさんの二人きりだった。おばさんは入り口近くのホワイトボードのところに立っている。ペン先のこすれる音がかすかに聞こえる。何かのメモを取っているのだろう。ボードには昨年度内に割れた牛乳瓶の総数も書いてある。八十二本らしい。ボードを押さえるおばさんの左人差し指には絆創膏が巻かれている。肌はつやつやしているが髪は白髪まじりだ。生えぎわが汗で湿っている。髪が脂を吸って額に貼り付いている。ぼくの母親よりも年上だろうか。
 とつぜん入り口の重い扉が開いた。クラスの給食当番の女の子のひとりだった。呆気にとられて見ていると、気まずそうにぼくに近寄ってきた。「大丈夫?」とか「ひとりで持てる?」などと言いながら。そばで見ると見上げるほど背が高い。適当な返事をすると女の子は黙って取っ手の片方をとった。白い袖からのぞく手はぼくなんかよりずっと黒く日に焼けていた。ふたりで配膳室を出てから暫くたったころ、三階に上がる階段の途中で彼女が素手で取っ手を握っていることに気が付いたが、女の子は平然としている。感嘆した。
 教室はすぐそこで、僕らはすでに他のメニューの並べられている配膳台の上に食缶を置いた。大げさな音がした。荷物から解放されて、女の子はすたすたと廊下へ出ていった。食缶の蓋の上に一本女の子の髪が抜け落ちていた。黒くつやつやと光って、まっすぐだった。
 給食の配膳が始まった。食缶の蓋を開けると中味は肉じゃがだった。じゃがいも、人参、バラ肉、蒟蒻、三度豆・・・・・・それらに胡麻がまぶしてあった。胡麻は煮汁を吸って食缶の内側にびっしりと貼り付いていた。ぼくは胡麻が嫌いだった。つぎつぎと群がる生徒たちに流れ作業式に肉じゃがをよそっていった。みんな揃ってうつむいていて、顔が見えない。行列が途切れるころには誰が用意したのか、給食当番の生徒の机の上にもきちんと配膳されたお盆があった。白衣を脱がないうちに「いただきます」の号令がかかる。急いで丸めて巾着におさめ、ぼくも食べ始めた。
 壇上の教師はものの数分で給食を食べ終えクラスの見回りを始めた。そしてぼくが肉じゃがの椀に箸をつけていないのを見咎めた。
「食べないのか」
「はい」
「変わったやつだな、肉じゃがが嫌いなのか」
「肉じゃがは好きです」
「具合でも悪いのか」
「大丈夫です」
「ならどうした」
 いやな方向に話が進んできた。小学校ではあるまいに、教師はいちいち食事に文句をつけてくる。ぼくは口ごもりながら答えた。
「胡麻が食べられないんです」
 それまでこちらの様子を窺っていたとなりの席の男子が突拍子もない声を上げた。
「おまえ、胡麻が嫌いなの?」
 ぼくの一三八センチの体の上から下までを眺めて、 「その身長で?」
 どっと笑いがおこった。
 それからぼくはゴマと呼ばれるようになった。

 桜の葉は茂りよく晴れた日が続くようになった。教室棟のすぐそばのつつじの植え込みから漂う甘ったるいにおいがクラスにまで入り込んでいる。今日は月曜日。先週末に中間試験を終えた生徒たちはみな一様に気だるげだった。ぼくも同じだった。土日は結局寝て過ごした。テスト勉強中に溜まっていた筈の「やりたいこと」はいざ自由の身になってみると春雨のように消えてしまうものだ。後には睡眠過多の脳だけが残った。ぼくは重たい額を机に押しつけた。ひんやりと気持ちがよい。
 じきに英語教師が入ってきた。緩慢な動作で生徒たちはそれぞれの席にもどる。日直が号令をかけた ―― きりーつ、れい、ちゃくせき。
「先週のテストを返すぞ。出席番号順に取りに来い。一番」
 はいと小さく答えて女子が教壇へ進み出た。ぼくは机にうつ伏せたままぼくの番号を待つ。直に呼ばれて席を立ち解答用紙を受け取った。席に戻り腰をおろすと背中を小突かれた。
「八十点台かよ」
 後ろの席の生徒だった。ぼくは答案をさっとたたんで机の中にしまった。
「ゴマって頭いいんだ」
「そんなことないよ」
「塾に行ってる?」
「週に二回」
「俺は野球部だから塾なんて通えないなあ」
 彼は自分の坊主頭をぐるりと撫でて、どこの部なのかと訊いた。
「天文部」
 相手は目を丸くして「すごいじゃん」と言った。何がすごいのかさっぱりわからなかった。すごいというのは便利な言葉だ。どんなときでも何に対しても使うことができる。こいつはすごいとしか言えないのか。そう思った途端に目の前の生徒が低脳に見えてきた。と、同時に心のどこかに優越感がわいてくるのはおさえがたかった。
「月に一度の観測会があるだけだから楽なところだよ」
「観測会って、星を見に出かけるのか?夜中に?」
 問われてぼくは会話が面倒になった。しかし丁寧に答える。すこし饒舌になった。
「実際に夜に星を観測するのは夏休みの合宿のときだけだよ。それ以外のときには部員が集まって調べたことを発表するだけなんだ。その時期に見える彗星とか、火星探索の話とかね。知ってることをまとめるだけだから、まぁ楽しいよ」
「ゴマは星が好きなんだな」
 ぼくは真正面から目をのぞきこまれた。思わずたじろいだ。真剣な目だった。
「俺は野球が好きだ。小学生のときからずっとやってる」
 教師が話し始めた。ぼくらは話をやめて姿勢を正した。
 試験問題の解説が始まった。後ろの奴は多分もうぼくのことを見ていないだろう。でもあの眼差しに射抜かれた感じはしばらく体に焼き付いていて、なんとなく落ち着かなかった。まっすぐな目だった。驕った心を見抜かれたようだった。
 カーテンを通した窓からの光が机をあたためている。消しゴムも生あたたかい。白く粉をふいた表面にシャープペンを押し当て芯を出す。細い芯がゴムにくい込む。やわらかな手応えが親指に伝わる。そうしてしばらく遊んでいた。
 去年のちょうど今、入学したての頃にもやはり友達がいなかった。小学校からの友達は学区の関係でほとんど別の中学へ行ってしまった。たまたま席が近くなった大野という奴と仲良くなったのが、ようやく梅雨に入った頃だった。特に趣味が合うというわけでもなかったけど、夏休みには連れ立って夏期講習へ行ったし、二学期の合唱コンクールの練習はそろってさぼった。コンクールが終わると年明けの百人一首大会に向けて夢中で歌を覚えた。単語カードを使って問題を出しあった。たまには実際の歌留多をつかって練習した。大野はあまり記憶力の良い方ではなかったけど、実戦には強かった。そうやって十二月から準備していたのに、三学期に入ってみると大野は既に転校してしまった後だった。父親の転勤だったらしい。異動は事前にわかっていたはずだった。あとで転居の知らせのはがきが届いたが、親が印刷したものなのだろう、活字だった。大野の手書きの字は一字も入っていなかった。一年の通知表には百人一首大会学年二位と書かれた。もし大野がいたらこの数字は違うものになっていただろう。大きくなるにせよ、小さくなるにせよ。
 後ろの奴の寝息が聞こえる。そういえば大野もよく居眠りしていた。野球部ではなかったが、大野の部活も朝練があったと聞いている。楽だというだけで部活を選んだぼくは絶対にそういうところには入れないだろう。
 授業は早めに切り上げられてホームルームが始まった。三週間後には林間学習で富士山の方まで行く。そのための班分けや部屋分けを行うのだった。仲良しグループのある女子はスムースに決まった。男子の方がなかなか決まらなかった。ぼくも右往左往していたが、さっきの野球部の奴が自分の班に引き込んでくれた。
「こっちに来いよ、ゴマ」
 周りはまだ混乱していた。女子は際限なく続くおしゃべりに夢中だった。男子は黙りこんで、誰かが何かするのを待っていた。ぼくは自分の身が落ち着くと今度は塾の時間が気になりはじめた。黒板の上の時計を見ると三時半より少し前だった。四時に学校を出ても充分に間に合うが、ぎりぎりまでは待っていられなかった。後ろの席の奴に礼を言って、いつの間にか人数の減った教室を出た。昇降口近くの廊下の窓からグラウンドの周りを走っている野球部員たちの姿が見えた。五月にもなると夕方でもそれなりに日差しが強い。みんな汗をかいているのが遠目にもわかった。後ろの奴は部活に出なくて大丈夫なのだろうかと訝りながら、ぼくは昇降口を出て行った。

 その数日後は天文部の観測会の日だった。観測会といっても実際に天体観測を行うわけではなく、決められた順番に調べたことを発表するだけだ。今回の発表はぼくの出番だった。ホームルーム終了後に第二理科室へ向かった。理科室は四階にある。窓の外を眺めると見晴らしが良い。一年生の頃もここへ通った。見慣れたが、ほっとする目線だ。
 安っぽい引き戸を開けると既に数人の部員が席に着いていた。電車の座席はまずは両端の席、そして真ん中の席というふうに、人と人の間をとるようにして埋まっていく。そんなことを考えながら空いている席に座った。
 十五分ほどして観測会が始まった。部長が前に出たのでぼくも立ち上がった。部長が進行役をしている間にスライドを準備する。教室を暗くしてスイッチをつけるとスクリーンがぼうっと明るくなった。ピントを合わせる。化石の写真が大写しになった。ぼくは部長のマイクを受け取る。教壇に立ったが、ぼくの背に教卓は高すぎる。中心よりは左寄りに立ってマイクを口に近づけた。

 これから地球の自転速度について発表したいと思います。ここに写っているのはサンゴの化石です。古生代デボン紀、つまり今から四億年くらい前のものです。このサンゴ全体に横縞模様が入ってますね。このシマシマは日輪と呼ばれる成長線で、一日に一本ずつ横縞が増えていきます。つまりこいつが一年生きると大きくなった分だけ三六五本縞模様が増えるわけです。見ればわかりますが、一定の間隔でシマシマになるわけではなく、線と線の間が細かいところもあれば粗いところもあります。サンゴだって暖かい夏には一日の間にたくさん成長するし、冬はほんの少ししか大きくなりません。いっぱい成長すれば戦と線の間の幅は広くなります。成長しないと幅は狭くなります。夏と冬でシマシマの模様の密度が変わるから、きちんと調べればどの部分がどの季節かわかるんです。それで一年間でどのくらい成長したか調べられます。でもこの化石の一年分の縞の数を数えると三六五本にはなりませんでした。だいたい四百本くらいでした。それなのに昔と今とサンゴの成長量は大差がありません。つまり、昔は今よりも一年間の日数が多かったんです。だんだん少なくなっていってるって言ったほうが正しいのかな。何が言いたいのかというと、地球の自転の速度がだんだんと遅くなってきているってことなんです。これには月の力が影響しています。次のスライドの図を見てください。月と地球はお互いにお互いの重力の影響を受けていて、それで海の水が満ちたり引いたりしているっていう話は聞いたことがありますよね。満ちたり引いたりして水が移動した分、海底で地面と水が擦れて摩擦力がかかります。風の強い日を思い浮かべてください。風に向かって歩くのは大変ですよね。それと同じように、この摩擦力がちょうど地球のブレーキになって自転を止めようとします。もちろん急ブレーキというわけではありません。自転速度が遅れるペースは100年に1秒かそこらという程度だそうですから安心してください。このブレーキの力を潮汐力といいます。地球は潮汐力の影響でだんだん自転のスピードを落としていっているのです。ところでおととしの暮れにスマトラ島沖地震があったのを覚えてますか?次のスライドを見てください・・・・・・はい、こんなニュース映像でした。多分新入生の人たちが五年生のときのことだと思います、インドの方でかなり大規模な地震が起きました。この地震のエネルギーで地球は変形してしまったそうです。北極と南極の方に引っ張られて、前よりは縦長になってしまったんです。とは言っても、もともと地球は横長につぶれた楕円の形をしてるから、本当に縦長になったわけではありませんよ。少し球体に近づいたというくらいです。フィギュアスケートの選手がスピンするとき、両手を挙げると速く回るようになりますよね。あれと同じように、前よりも縦長になったことで地球の自転速度もほんの少し速くなったそうです。自転速度って一定なんだと思ってたけど、地震やなんかで変わってしまうものなんですね。それに、それだけあの地震がひどいものだったっていうことなんだと思います。それにあんなに遠い月の力でも地球の自転を遅くさせることができるんですね。ぼくの発表は以上です。聞いてくれてありがとうございました。

 観測会は終わった。片付けをすませて第二理科室を出ると、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。薄く雲がかかっていて星は見えない。半月のある場所がわずかに明るくなっているだけだった。たくさん喋ったせいで、ぼくは疲れていた。
 二階と一階の間の踊り場でクラス担任に出くわした。教師は強ばっていた顔を一層険しくしてぼくの名前を呼ぼうとしたが、名字が思い出せなかったらしい。乾いて荒れた唇を湿して「ゴマ」と発音した。
「ゴマ、大変だ。●●が怪我して病院に運ばれたそうだ」
 ぼくはクラスの人間の名をほとんど覚えていなかったから、教師が教えてくれた名が誰を指すのかわからなかった。でも続きの言葉を聞いて頭が真っ白になった。
「確かあいつはお前の席の後ろだったよな。部活の練習中に骨折したらしい。ピッチャー返しだそうだ。多分数日間は入院するだろうから、授業プリントやノートなんかをとっておいてあげなさい。先生はこれから病院に向かってみる」
「どこの病院ですか」
「市立病院だよ、県道沿いの」
「先生の車で行くんですか」
「ああ、そうだ」
「ぼくも一緒に連れていってください」
 教師は一瞬黙ったが、すぐに頷いた。
「構わないが・・・・・・わかった、家に連絡しなさい」
 先生の車は煙草くさかった。扉を開けた瞬間に臭ってきた。先生より先に後部座席に乗り込んで、先生がシートに座り、扉を閉めてキーを差しこみエンジンをかける一連の動作をじっと眺めていた。キーにはテニスラケットの形のおもちゃがくっついていた。とても大人の買うものとは思えない。子どもか誰かからのお土産か何かだろうか。思えば父親以外の人の運転する車に乗るなんてそう滅多にあることではないが、校門を右折で出るまでにぼくは先生があまり良いドライバーでないことを見抜いた。
 交差点に差しかかる度に大きく揺れながら車は県道に出た。帰宅ラッシュの時間帯で道路は混んでいる。父の車でよく通る道なのに、テールライトが赤々と残像を残し、ホテルのけばけばしい看板が時折現れる道路は全く知らない土地のものであるかのように見えた。ふと大野のことを想像した。親の車で新しい町を走るとき、大野もこんな感覚におちいったのだろうか。
 程なくして車は病院の駐車場に入った。車を降りてからふたりともシートベルトをしていなかったことに気が付いた。
 先生の後について受付を済ませ病室を目指したが、途中で何度か堂々巡りをするはめになった。廊下をうろうろしている間に駆けつけた奴の母親と鉢合わせた。先生は挨拶もそこそこに容態を尋ねる。
「それがですね、お医者様にきくと、骨折は骨折らしいんですけど、ポッキリ折れたわけではなくて、ひびが入った状態みたいで。ご心配おかけしてすみません。ただのひびですから。ほんと、うちの子の不注意で、申し訳ございません。すぐに治るみたいで。ただのひびですから」
 ぼくはしばらくその場でふたりの大人の話を聞いていた。廊下の隅に掃き残した塵が溜まっているのをじっと見ていた。見つめていると、小蝿が行ったり来たりそているのが見える気がした。教師と母親はなおも話しこんでいる。ぼくの我慢はそう長いこと続かず、ふたりに向かって失礼しますと頭を下げた。
「もう帰るのか。ここまで来たなら見舞ってやれば良いだろう」
「すみません、八時までに帰るって家に連絡してしまったんです。もうぎりぎりなので」
「そうか・・・・・・車を出してやるから、少しでも顔を見せたらどうだ」
「いえ、近いので大丈夫です。ありがとうございます」
 もう一度頭を下げてぼくはその場を離れた。せっかくきてくれたのにごめんなさいねぇ、という母親の声が後ろから聞こえてきた。
 ぼくはまっすぐに家に帰った。さっきあれほど焦った気持ちが嘘のように、会おうという気はいつのまにか失せていた。ぼくはいまだに後ろの奴の名前を覚えていない。さっき教師が口にしたばかりだというのにもう忘れてしまった。でも忘れて良かったと思った。ぼくは振り返らなかった。病室のプレートの氏名表示など見たくなかった。
 教師が予想したとおり、後ろは二、三日の間空席だった。復帰した日も奴は午後の授業だけ受けて帰ってしまった。松葉杖と膝までのギプスが痛々しかったが、直に見慣れた。奴は言った。
「医者の先生は、林間学習は行ってもいいって言ってくれた。さすがにオリエンテーリングの間は宿舎で待ってなくちゃいけないみたいだけど」
「良かったなあ」とぼくは言った。まるで大野と話しているかのようだった。
「ああ、ほんと良かった」

 林間学習の日はすぐにやってきた。朝六時半に学校に集合して近くの道路に待機している大型バスに乗り込んだ。ぼくは後ろの奴と隣り合わせに座った。欠伸をくりかえした。五時起きだった。野球部なら朝練で慣れているだろうがぼくにはこたえた。
 バスが動き始めるとガイドさんが挨拶を始めた。隣の奴がこそこそと話しかけてきた。
「おれが入院した日、ゴマも病院に来てくれたんだってな。先生が驚いてたよ。ありがとうな。それにしても、部屋まで来てくれればよかったのに」
「時間が無かったんだ。具合はどう」
「触ったり変な姿勢になると痛いけど、他は思ったほどじゃないよ。ひびが入っただけだったしなぁ。でも、内出血してる部分が黄緑色になったりしたよ」
 足をさすりながらしゃべり続けた。
「今は痛いっていうよりも部活に出られないのがつらいよ。不思議だな。相手の打った球が、おれの目に当たると思った。それで体をひねった。ボールは目の位置なんかよりずっと低くて、足に当たった。でもな、くらった直後はびびりまくってたのに、今はボールを投げたくてうずうずしてる」
 いつの間にかガイドの話は終わり、周りはおやつの時間を満喫していた。そいつはリュックの中を探ってお菓子の袋を取り出した。
「食えよ」
 煎餅だった。よく見ると胡麻煎餅だった。
「これは無理だよ。海苔巻きなんかは持ってない?」
 相手は陽気に笑った。
「わがまま言うなよ。胡麻しか無いよ。お前本当に胡麻が嫌いなんだな。なんで胡麻なんかを嫌いになるんだ」
 ぼくは少し考えこんだ。
 ずっと前から嫌いだったわけではない。昔は好んで胡麻ダレ団子などを食べていたのに、突然食べられなくなったのだ。春のある日の夕食にマグロの漬けが出た。父親はこんな季節にどうしてマグロなんだと文句を言っていた。ぼくはしょうゆダレの中に沈む透きとおった切り身とその上に浮かぶ白胡麻を見詰めていた。誰かが皿を置いたりして食卓が揺れるたびに胡麻もゆらゆらと動いた。胡麻は皿の淵やタレの海から顔を出している赤身の周りに沿って溜まっていた。あんまり長い間じっと見詰めていたので、目を瞑るとまぶたの裏にネガ反転した胡麻の映像が焼きついた。胡麻の残像はちらちら光って星空のようだったが、そのうちにもぞもぞと蠢きはじめた。蛆のようだった。仰天して目を開けても、やっぱり胡麻は蛆に見えた。もう駄目だと思った。
「理由なんかないよ。胡麻ってこんなに小さくて、沢山あるだろう。そういうのが突然気味悪くなったんだ。得体が知れないような気がするんだ」
 相手は曖昧な笑みを浮かべた。話がよくわかっていないのだろう。
 バスは高速道路を走り続けた。田んぼの中や山の中を走り続けた。山は迫るほど近くに感じられ、彼方の稜線はくもった空との境界が曖昧だった。朝方は晴れていたのにだんだんと空模様があやしくなってきてる。昼食後はオリエンテーリングが行われる予定なのにこれは危ない。教師陣も何やらひそひそと話している。一時は小雨になったが一般道に降りると再び晴れ間が見え、富士山中の公共宿泊施設に着いた頃には気持ちの良い快晴となっていた。
 二学年全員、およそ三百人がロッジのテーブルに並んで座り、冷めたカレーを一斉に食べた。福神漬けには胡麻が合えてあったので、ぼくは避けて食べた。コップに入っているのは麦茶ではなくお冷だった。カレーを食べ終わらないうちにデザートのヨーグルトが配られたので、口をつける頃にはすっかりぬるくなってしまっていた。ご馳走様の号令で全員が食事を終える。十五分間の昼休みの間じゅう女子トイレは長蛇の列を作っていた。列が無くならないうちに男子や他の女子はロッジ前に集合する。何人かが遅れて駆け寄ってくる。ぼくらはうんざりするほど長い説明を受け、班に一枚ずつの地図とコンパスをもらった。
 オリエンテーリングが始まった。五分おきに各班が出発していく。待っている間に野球部の奴がロッジのほうから松葉杖でひょこひょこ近づいてきた。そしてぼくらの中のひとりに手に持っていた袋を差し出した。
「これ食べろよ」
 さっきの胡麻煎餅の大袋だった。
「おれひとりじゃ食べきれないからさ、みんなで食べろよ。ゴマには悪いけど」
 袋を受け取った女子が礼を言った。奴は照れたのか、何も言わずにまたひょこひょことロッジに戻っていった。
 ぼくらも出発した。ぼくらの班長はさっきの奴のはずだったが、あの通り不参加だ。副班長の女子が地図とコンパスを持っていた。ぼくらは三人だけだった。ぼくと副班長と、もうひとりの女の子。はじめの一時間はふたりでひっきりなしにおしゃべりを続けていたが、黙りがちになってきたのが六つあるチェックポイントのうちのふたつめを通ってしばらく経った頃だった。
 副班長がぼやき始めた。ぼくはふたりから五歩ばかり離れてやりとりを聞いていた。
「まだふたつしかハンコ取れてないじゃん。時間内に終わるかな」
「大丈夫だよ、終わらなくても別に怒られるわけじゃないし。時間は?制限があったよね」
「五時までに宿舎に帰らなくちゃいけないから、あと二時間ちょっとかな。三時になったら休憩しようよ」
「そうだね、疲れちゃった」
 ぼくはほとんど会話に参加しなかった。副班長にしたがって歩いている間も休んでいる間も上ばかり見ていた。見上げると木漏れ日がきらきらとまぶしく、楢の葉の重なりがくっきり浮かびあがっていた。コトコトコトと妙な音がすると思ったらアカゲラを見つけた。ミソサザイの鳴き声もわかった。
 そんなふうにずっと空ばかり見ていたぼくだから、天気の変化はすぐにわかった。雲が出てきてやや暗くなった。ぼくは女子ふたりに進言した。
「もうすぐ雨になると思うよ。雨宿りできるところを探した方がいい」
 ふたりの女子はまじまじとぼくを見詰めた。副班長でない方の背の高い女の子が、どうしてそんなことがわかるのと訊いた。語尾に「ゴマなんかに」という含みが聞こえた気がした。
「雲が出てきた。山の天気は変わりやすいから」
 果たして土砂降りの雨となったが、ぼくらは間一髪トンネルの中に滑りこんだ。既に四時をまわっていた。副班長がぽつりとつぶやいた。
「ゴマの言うとおりだ。ひどい雨だね。これじゃ五時までにもどるなんて絶対に無理だね」
 それでも狂ったような雨はすぐに落ち着いた。しかしどうにも冷え込んだ。霧雨がなかなか上がらないのでぼくらは外に出ることができない。教師陣に連絡しようにも、トンネルの中だからか山の中だからか携帯電話は圏外で使えない。三人が三人とも押し黙ってただじっと待ち続けた。やがて我慢できなくなったかのように副班長はもらった胡麻煎餅をかじり始めた。もうひとりの女の子も続く。無言の空間の埋め合わせをするように食べまくり、ついにはふたりで食べ尽くしてしまった。ぼくは少し離れたところで彼女たちの姿を眺めていた。
 やっと動けるようになったのは実に一時間以上も後であった。辺りはすっかり夕暮れ時であったが、ぼくらには景色を楽しむ余裕などとっくに失せていた。副班長は気まずそうに教師と連絡をとった。電話越しに怒鳴られてびくりと体を震わせ謝ったり言い訳したりしていた。副班長は通話状態のままでぼくらに話しかけた。
「ねえねえ、この地図だと私たちって今どこにいることになるのかな」
 ぼくともうひとりの女の子は顔を見合わせた。ふたりとも副班長の後にただ付いてきただけだった。無論わかる筈もない。結局その場を動くなとだけ言われて電話は切れた。
 夜になった。遠くでフクロウの鳴き声がする。近くでは雨蛙が鳴いている。時折樹上を小さな影が行き交った。暗くてよく見えない。多分リスかネズミだろうとぼくは見当をつけたが、そんな動物でも女子ふたりを怯えさせるには充分だった。教師陣の迎えを待つあいだ、物音がするたび悲鳴を上げるふたりを何度もなだめすかした。それ以外のときはひたすら星空を見ていた。まず天頂付近のおおくま座の北斗七星を発見した。すぐ近くにしし座が見えた。本でしか見たことの無いこじし座らしきものも確認できた。地元ではとても見えないような星まで確認できる。ここには大野も後ろの席の奴もいない。奴がいたらこんな事態にはならなかったかもしれないが、星空を見ているとそれでも良いような気がしてきた。
 ぼくが星空観測に夢中になっている間に足元にテンが現れた。背の高い方の女の子の体操服のハーフパンツから伸びた浅黒い素足をテンのやわらかい白い身体がかすめた。女の子は小さく叫び飛びのいてぼくの方へ逃げてきた。それが限界だったようだ。そのままぼくの足元にうずくまり肩を震わす。そして髪を振り乱して盛大に吐いた。
 ぼくはぼくの足を湿らすその下呂を見た。昼間のカレーが残っているのか全体に茶色がかっていて、消化過程にある米粒がたくさん混じっていた。ところどころに人参の赤い斑がある、ピーマンの青い斑がある。そしてさっきの煎餅の胡麻がぷつぷつと浮いていた。胡麻はゆっくりと回転しながら浮き沈みしている。完全な形の胡麻はほとんど無い。黒胡麻の皮が破けて中の白い部分が見えている。その白はさながら星屑のようだった。ぼくは副班長の「大丈夫!?」という上ずった声を非常に冷静な心で聞いた。彼女はぼくらに近寄れないでいる。ぼくは背中のナップサックを腹側に回してティッシュとペットボトルを取り出した。背高の、浅黒いその子の顔と手を拭いてやり、口をゆすがせる。髪にもげろがこびり付いていたので綺麗にしてやった。ぼくの足も綺麗にした。ズックと靴下の汚れは落ちなかったが、別に構わなかった。
 ショックから醒めた副班長が女の子の背中をさする。ぼくは汚れたティッシュをごみ袋に詰めるときに、右の人差し指の爪の間に胡麻がはさまっているのに気付いた。さっき女の子の髪を梳いてやったときにはさまったのだろう。ぼくは立ち上がり、頭上のアークトゥルスを見ながらその胡麻を口に含み、飲み込んだ。

2004 大学1年の冬  稚菜

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